1868年に日本国の統治体制が変わり、それまで200年以上にも渡って続いた鎖国が解かれると、外国文化が一気に流入してきました。外国産の犬も入ってきました。日本人の間では種の保存という概念が乏しかったので、放し飼いだった日本犬はこれら外国犬種とたちまち交雑していったのです。
これを憂えた有志が、昭和3年(1928年)に日本犬保存会(以下日保と略記)を設立し、日本犬の保存活動を開始しました。
当時街中にはすでに純度高い犬はなく、山間僻村にわずかに残存した犬を求めての探索が行われました。通信手段なく、情報もなく、交通手段も今日とは比べようもない位未発達の状況下、口伝えや噂を頼りにしての探索行はとても困難なものでした。当時の様子は日保会誌に克明に記録されています。先人達の情熱と力行、そして少なからぬ費用を傾注しての活動でした。
その甲斐あって、昭和7年(1932年)10月から昭和14年(1939年)9月までの7年間に2,495頭が犬籍登録されました。内訳は大型犬510頭・中型犬1,600頭・小型犬385頭でした。例えば2018年の年間登録数は29,284頭ですから、当時はいかに僅かな数の犬しかいなかったかが知れます。この数字からして、初期の日保の困難な状況が推測されます。さらには太平洋戦争の激化によって、昭和19年(1944年)以降昭和23年(1948年)までの間、日保の活動は休止となりました。戦時下のため、国の命により犬の飼育は厳しく制限されました。そして多くの犬が失われたのです。このような多くの困難を乗り越えて、日本犬は保存されて来たのです。
今日私達が容易に純度高い日本犬を飼育できるのは、先人達のひたすら「日本犬のために」という燃えるような情熱と愛情、そして高い理念と実行があったればこそと言えるのです。
現在日本犬として公認されている犬は図に示されている6犬種で、皆天然記念物に指定されています。
他にも幾種かの犬も残されていました。以下に紹介します。なお、体高により大型犬・中型犬・小型犬の3型に区分しますが、区分基準は日保の定めるところによります。
◉大型犬:雄67cm・雌61cm
上下各3cmの差は許される
◉中型犬:雄52cm・雌49cm
上下各3cmの差は許される
(暫定措置として、北海道犬、甲斐犬は下限2cm低いものも許容)
◉小型犬:雄39.5cm・雌36.5cm
上下各1.5cmの差は許される
アイヌの人達によって獣猟、とくに羆猟の犬として飼い継がれてきた中型犬です。本州の中型犬よりは幾分小柄な犬が多いようです。産地としては岩見沢・日高・千歳・函館など各地が知られていますが、今日では各産地間の交流が進んで統合されています。北海道犬には赤・胡麻・黒・白・虎の日本犬の全ての毛色が見られます。また口中に舌斑を有する犬が少なからず見られるのも特徴です。
岩手県、秋田県、それに青森県の一部で番犬、あるいはマタギと呼ばれる人達の間で狩猟犬として飼い継がれてきました。奥羽山脈や北上山地などで獣猟犬として活躍しました。中型犬としてはやや大きい犬が多かったようです。
昭和初期にはかなりの数が犬籍登録されていますが、多くの犬が都会に出されたり、戦争の影響もあって、終戦のころには著しく数を減じたとされています。
今日ではその姿を見ることは出来ません。
秋田県大館地方の秋田マタギ犬を母体とし、明治以降移入された外国産大型犬の血を導入して大型化されてきた犬種です。したがって小型・中型日本犬のような日本古来の犬としての性質は薄いと言えます。一時期姿が日本犬とは乖離した犬が見られるようになりましたが、和犬回帰の目標のもと改良がはかられ、復元することとなります。日保設立の3年後、昭和6年に天然記念物に指定されました。
近年忠犬ハチ公の美談が映画でも紹介されるなどして注目され、海外でも秋田犬単独のドッグショーが開催されるなど、愛好者を増やしています。
山形県東置賜郡高畠町を中心として飼われていた中型犬で、高畠町高安の地名から、高安犬と呼ばれた犬です。番犬やマタギ犬として、蔵王山塊や吾妻連峰また飯豊連峰などで獣猟犬として使役されていた犬です。
「チンは高安犬としての純血を保っていた最後の犬だった・・・」の書き出しで始まる、動物作家戸川幸夫の小説高安犬物語で、世に知られることとなりました。滅びゆくものへの愛惜の念に貫かれた物語は、日本犬に心寄せる者に深く共感できるものです。
日保では昭和9年頃に探索隊を派遣し、東置賜郡及び南置賜群で調査しています。しかし時すでに遅く、この時の調査では純血度高い犬は発見されなかったようです。
高安の地には全国でも珍しい、犬をまつる宮があります。その昔、村人を困らせる役人に化けた大狸・荒狸を、甲斐の国から来た三毛犬・四毛犬が退治してくれました。しかし犬達も深く傷つき、息絶えてしまいました。村人達は村を救った犬を鎮守として宮にまつったのです。人と犬の係わりを今に伝える素朴な話です。
毎年7月に愛犬の供養のために大勢の人達が各地より訪れて、供養祭が執り行われています。
富山・石川・福井の各地に古くから飼われていた、中型の日本犬です。産地ごとに立山犬とか白山犬とか大野犬などの名称で呼ばれていましたが、昭和9年の天然記念物指定にあたり、総称して越の犬と名付けられました。
若干の資料が残され、発表されていますが、それら写真から判断して、当時の紀州犬や四国犬と比べると、顔貌や被毛など見劣りする様に思われます。昭和10年前後にはすでに純度がかなり低下していたと推測されます。戦争により多くの犬が失われ、戦後復元されることなく、ついに絶滅に至りました。
山梨県甲府市周辺の山間地域に、主に狩猟犬として飼われてきた犬です。主たる産地として芦安村・平林村・西山村・奈良田村などが知られています。
甲斐犬は他産地の日本犬と比べて、際立った特徴を有しています。
体高は中型サイズから小型のサイズまであり、固定度は低いと言えます。それは主たる保存団体 甲斐犬愛護会の「昔からの犬をそのままに残していく」との理念によるものです。
更なる特徴は、被毛色がほぼ虎毛色に統一されており、尾は差尾が巻尾よりはるかに多いことです。外貌は荒削りで、野趣に溢れています。これが甲斐犬の魅力として、熱心な愛好者が多くいます。なお、口中に舌斑が見られるのも特徴です。
三重・和歌山・奈良三県にまたがる重畳とした山野を、猪や鹿を追って駆け巡る、気迫と高い運動能力を備えた中型の犬です。
紀伊半島各地で飼い継がれ、日高の犬とか、熊野の犬とかなど地域名を冠したいくつもの系統があります。
紀州犬と言えば、今日では白色犬と思われていますが、かつては胡麻毛など、有色犬が多かったのです。日保初期の登録によれば、白色犬はおよそ2割位で、胡麻・赤・淡赤などの有色犬が8割を占めていました。
終戦後、生き残った中に伊勢白号、三山号・ケン号などの白色の優秀犬がおり、彼らが繁殖に多用されたため、白色犬が多くなったとされています。今日では有色犬は展覧会ではほとんど見られません。
四国を南北に分かつ剣・石鎚山系の山懐に抱かれた山村で、獣猟犬として残されていた中型犬です。
山深い僻村であったが故に、幸運にも他犬種の影響を受けず、日本犬独自の姿を損なうことなく、今日まで飼い継がれて来ました。
産地毎に本川系・幡多系・阿波系・伊予系などがあり、それぞれが地域色を濃くしていたとのことですが、今日では本川系・幡多系の犬が主流であるとされています。
伸びある骨格構成で、乾燥体質の犬の多いのが特徴です。被毛は胡麻が主たる毛色ですが、赤や少数ですが黒毛の犬も見られます。
本州中央部から山陰地方、そして四国にかけての広い範囲に分布していた小型の犬です。信州柴・越後柴・美濃柴・山陰柴など地域名で呼ばれていましたが、今では「柴犬」が統一した犬種名となっています。地方色をもった小型犬は他にも残存していましたが、数は少なく、純度もすでに低かったようです。
大型・中型犬は残存地の名で呼ばれていますが、現在の小型犬は各地の犬の交流から成り立っているため、産地の名では呼ばれないのです。
柴犬は番犬としての他、従順で勇敢であり、日本の山野に適した形態であることから、小型獣のみならず、熊などの大型獣猟にも使役されて来ました。
写真の銅像は、新潟県北部の地で猟犬として使役されたタマの姿です。昭和9年春、狩猟活動中に主と同行者が雪崩に遭いました。タマは前肢から血を流し、雪を赤く染めながらも、2人を雪中より堀りおこし、助けたのです。このことを讃え、忠実なる犬として像にしたもので、忠犬タマ公として多くの人びとに親しまれています。
秋田犬ハチ公の話とともに、人と犬との絆の深さが感じられる出来事です。
日保発足当初、小型犬は7年間でわずか385頭しか登録されていません。まさに絶滅の瀬戸際にあったといえるでしょう。
昭和9年、日本犬保存のための道標となる日本犬標準が定められ、以降次第に質・数ともに向上してゆきました。しかし戦争の激化により多くの犬が失われ、終戦のころには壊滅的な打撃を受けていたのです。
幸運にも戦後まもなく「中」号の出現をみることになりした。中号は山陰系の犬と四国系の犬、さらに山梨の地犬の交流によって作出されたのです。図に示せば次のとおりです。
中号は遺伝力強く、信州柴と呼ばれた長野県各地の犬の他多数の犬に配され、多くの優秀犬を輩出しました。現代の柴犬は全て中号の血を受け継いでいるのです。
なお、今も島根・鳥取県地域では山陰柴の保存活動が続けられています。
※マタギ
マタギとはアイヌ語に語源があるとされています。山形・秋田・岩手など東北地方の狩人のことです。平素は農業・山仕事などに従事し、晩秋から初冬、そして早春の残雪期に狩りをする人達です。山には神が宿るとし、獲れた獲物は山神様からの授かりものと考え、厳格な仕来たり・作法に従って狩りをする人びとのことです。
幸運にも、そして先人達の貴い努力の結果として、私達の傍らに日本犬がいます。私達にはこの犬達をよく理解し、後世に伝えていくことが求められます。
なぜなら、日本犬は日本の自然に育まれつつ、日本民族とともに悠久の時を越えて来た犬だからなのです。
文 大塚 二三雄
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